神奈川県議会議員 鈴木ひでし 鶴見区選出 公明党

東日本大震災の現場訪問 ― 福島県南相馬市を訪ねて
東北魂は健在だった!!

支援要請

支持者の方々の血のにじむような支援のお陰で当選をさせていただいた選挙の投票日の翌日11日、幼い時からお世話になっている支援者の方からお電話を頂戴した。
その電話は、同じく幼少の頃からお世話になり、現在、福島県南相馬市原町区にお住まいになっている方が、福島第一原発の影響により生活物資に困窮している旨の内容で、何とかその現状を変えてほしいとの要請であった。
選挙期間中も行方不明者の捜索について、避難所への問い合わせについて等々、東日本大震災後、数々の相談を受け、現地の県会議員や国会議員を通じて、その対応をしてきました。が、具体的に物資が足りないとの問い合わせを受けたことはなかった。
南相馬市といえば計画避難区域にも入っており、一瞬、放射能の危険区域への立ち入りという問題が頭をよぎったが「現場第一主義」の信念が決断させた。
訪問にあたって水、ティシュー、缶詰、栄養ドリンクそしてカップラーメンを支援物資として購入。牧嶋前市会議員そして尾崎市会議員と共に4月14日午前6時に自宅を出て、福島県相馬市原町区に向かった。

南相馬市原町区の自宅で

鶴見を出て7時間、南相馬市原町区の被災者のお宅を訪問。
まず、驚いたことは、福島のいわき地域を通過した際に、ほとんどの家の屋根瓦が崩れ落ちていたこと。家屋の崩壊は数軒であったが、中越そして中越沖地震で見た同じ光景が眼下に広がっていたこと。そして南相馬に入り、街や民家には何も損傷が見られないが、まるでゴーストタウンかと思わせるくらい、シャッター通りや人々の生活臭がしないことだ。
物資が足りないとのことであったが、訪問して納得した。この日やっとセブンイレブンが一か所開いたとのことであった。同時に、津波の被害が甚大と聞いていたが、一体その惨状はどこにあるのかと疑うくらいに、のどなか田舎町の風景の中を駆け抜けてきた。
折から私たちの到着を待ちわびたかのように、地元の市会議員そして地域の婦人リーダーが集まり自然と震災論議に入って行った。最初に「なぜ、物資が足りないのか?」との問いに対して、間髪をいれず風評被害との答えが返ってきた。説明によれば、南相馬市は福島第一原発の放射線問題で、屋内退避という地域、すなわち原発より30キロ以内に入っており、物資を積んだトラックが放射能を恐れ、南相馬市まで来ないで相馬市で帰ってしまう。従って物資は相馬市に滞ったままであるとのこと。調べてみると南相馬市は小高区、原町区そして鹿島区の3区からなっており、30キロ圏内には小高区しか入っておらず、その他の2区は明らかに避難区域には入っていない(4月13日現在の資料を基に。現在は計画避難区域に入っている町もある)。
地元の市会議員からは、テレビ、ラジオそして新聞が詳細を伝えず、総体として南相馬市と報道する姿勢がこのような風評被害となって表れているとのことであった。事実、目に見えない放射能という怪物を相手に日々生活を送っておられる方々からすれば、報道が事実をより詳細に、また分かりやすく伝える作業こそが願いとも思えた。原発から遠く離れた首都圏などでは、報道を通してしか放射能や現地の生活が分からない。だが故に、今あげた事実の報道をより詳細にそして分かりやすくという要素が今ほど必要な時はないと思われる。
話は進み、婦人のリーダーからは「政治家や役人は法律が法律がと叫ぶが、法律は人間のためにある。しかし、その法律が人間の当たり前の生活を塞いでいる」と、目にいっぱいの涙を浮かべて私たちに訴えた。婦人によれば、行政側は放射能が危ない、だから早急に出ていけ。法律として、そうなっている等々。いつも法律を盾に私たちに、この町から出て行けと言っている。しかし、放射能の数値はこの原町区よりも飯舘村の方が高い(現在、飯舘村も計画避難区域に入っている)。この町で、何とか踏ん張っている人々に対して、何故温かい対応ができないのか!との怒りであった。
「法律は人間のためにある」との言葉は、政治家である私の肺腑をえぐる強烈な言葉であった。私自身も、いつしか法律に慣れて、「こう法律で、条例であるからできません」との言葉をいつしか無意識に使っていたのではないか?と反省をした次第だ。約2時間猶予にわたる懇談を終えて、最後に今後の思いを込めて「頑張ろう!!」の記念撮影をし、救援物資をお渡しし、ご自宅を後にした。

津波被害の現場に

ご自宅から10分ほど車に乗り国道6号線に出た途端に、津波被害の現場に遭遇した。呆然と立ち尽くす私に、市会議員が「このような光景が何十キロと続いているんです」と語った言葉に、何度も何度も目をこすり、これが本当なのか?と自問自答を続けた。少し歩くと損傷が激しい施設を目にした。海辺に近いところに建てられていた特別養護老人ホーム、介護サービスがあった場所だ。津波の影響で流された車が施設の中に入ったまま。南相馬市で最初の死者が報じられたこの場所で、多くの高齢者が無くなったとのことであった。どんな思いで亡くなったのであろう、と思うと滂だの涙が頬を伝った。
そして、自衛隊の集合地でもある真野小学校近くの田んぼの中に何艘もの船が流されている現場を目撃した。明らかに海から3キロ以上も離れている田園地帯だ。当然、真野小学校も一階は使えない状態であり、復興に向けて校庭で打ち合わせをする自衛隊員に、感謝の思いを伝えた。併せて、市会議員より地域の被害状況の説明を受けた。付近の被災地の現状を確認後、相馬市の相馬港に向かった。
あたり一面、何にもない。まるで戦争で受けた空襲後の地のように、港町と海水浴場が一体となった地であるが故に、旅館、ホテルそして民宿や民家が軒を並べてあった。それが津波によって一瞬の内に、すべてが無くなっている惨状にただただ息をのむだけであった。岸壁の破壊された姿が、その恐ろしさを物語っている。説明によれば、今でもこの瓦礫の中に人が埋もれているかもしれないとのことであった。悲しい本当に悲しい…

最後に、相馬市内のイチゴ栽培農家を訪問させていただいた。大変に甘いイチゴで全国でも有名な品種だそうだ。ここにも高さ15メートルの津波が押し寄せ、大半のイチゴハウスが壊滅的な状態になったとのことであった。「せめて残ったイチゴを召し上がれ」と言ってハウスに連れて行かれ、お腹一杯甘い甘いイチゴのご賞味にあずかった。同時に、津波が運んできたという「ウナギ」を見せてもらった。「海の生き物が山に来るほどすごい津波だった。しかく来年はしっかり栽培し、元気を取り戻すぞ」とのご主人の一言に「さすが東北魂」とご主人誓いの固い握手を交わした。

 眼を庭に向けるとピンクの可愛い梅が可憐に咲き誇っていた。この梅のように来年こそは、震災前の素晴らしい相馬・南相馬を、と念じつつ東北道を東京に向け走り始めた。

平成23年4月28日

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